意見を交換する

私は、ものを見るとき、なるべく多くの方向から見たい、と思っています。でも、自分の方向から見える面には限りがあります。そんなとき、自分とは全く違う方向から見た人の意見を聞きたくなります。

異分野のかたの優れた意見を耳にすると、つい、「私のほうからみると、こう見える」といいたくなってしまいます。普段は、これをやると、非常識な人間と思われて敵対関係になってしまうことがあるので、あまり、できません。でも、502教室のかたがたは、立場の違う人の意見を耳にしてもそれを否定しないで帰納法で結論を見つけ出してくれたりしそうなので、安心してエントリーだのコメントだのを出してしまうのですが、失礼がありましたら、お許しください。

こんな具合に、私は、「意見の交換とは、異なる位置に立った者同士が、自分の方向からどう見えるか、を述べ、何かの真実を見つけ出すプロセス」と考えているわけですが、それじゃあ、オマエの位置はどこで、どっち方向から見ているんだ?ということになると思います。

私の場合、自分が経営コンサルタントになりたい、というよりも、経営コンサルタントと協力して企業の問題を解決するパートナーになりたい、という意識が強いです。だから、経営コンサルタントの思考の枠組みと少しずれたところがあります。一歩間違えるとゲテモノになりかねないので、診断士としての訓練やコンサルタントとしての訓練を通じて、コンサルタントの方々に、パートナーとして認めてもらえるように、努力していきたいと思っています。

私が影響をうけたのは、経営学ではなく、「文章心理学」「計量国語学」「修辞学」「認知心理学」です
この4つが組み合わさった結果、表現上のエラーを見ると、本能的に、そのエラーの原因とか、そのときの表現者の状態、修辞学的な効果、統計結果に興味がいってしまう傾向がでてきたように思います。エラーがある、ということを前提にして、ものを論じてしまうわけです。

これは、私が今まで接した企業にも関係があるのではないかと思います。私の場合、従業員20人以下の会社が主です。私が経営していたのも、最多時で従業員7人(アルバイトが主)です。その規模ですと、社内の書類の誤字脱字に目が行き届かなく、目の前に仕事を片付けるので精一杯、という事態になることがあります。体力のない企業は、余裕がなくなると、優先順位が低い順番に手抜きになっていく傾向があります。いわば「店はきたなく店主は無愛想だが、ウマイものを食わす焼き鳥屋」状態になり、何かに神経を集中することで一部の顧客の支持がえられれば、それで満足な状態になっていきます。この場合、エラーは、労働力に余裕のないことのあらわれであるため、つい、エラーと負荷とを結びつけて、エラーを現象として見てしまいます。で、エラーについて簡単な分析をして、とりあえず経営への影響が大きい重大なエラーから解決する、という発想になります。

また、その表現上のエラーが生じる修辞的な効果とかが頭に浮かんでしまい、肝心のエラーが意識の外に行ってしまうことがあります。あるとき、(守秘義務によりちょっとアレンジしますが)、中華食堂の店主から、「こんな張り紙でどうでしょう」と相談されました。「うちのギョウザは、ぐんまのきゃべつを つかつた、てずくりのギョウザです 中国のれいとうじゃないです たべてください」みたいな記述がありました。で、これを、なおせ、と言われても、はたして直していいものか?直すことで、この迫力が失われ、信憑性が低下するんだったら直したくない、と思って、ほとんど、そのままにした覚えがあります。

経営コンサルタントに協力する立場として、こういう位置からものを述べることが良いのかどうか、まだ分かっていません・・・。まだ、模索途中なのですが、中小企業診断士経営コンサルタントの考え方を学んで、中小企業における「誤解」とか「エラー」とか「表現」について、バランスのよいアドバイスができるようになりたいです。

文章がめちゃくちゃでごめんなさい。意図が通じるだろうか・・・?ところで、いま、502見てたら、ぎっちさんのブログで、スローガンを変えるって話がでてた。変えないでおくれよお。あのスローガンのファンなんだよお。いつも、あれ見て、自分も前向きに謙虚に精一杯生きようって、思ってるんだよお。

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言葉や表現がからむ問題だったらアイツにやらせろ、と言っていただけるようになるため修行中です。自己紹介はこちらです。よろしくお願いします。